人を大切にする事は、人としてとても大事な事だ。
でも、それと同じようにしなければならない事がもうひとつある。
それは、その大切に扱う対象の中に、自分も入れること。
「自分よりも相手を大事にする」というのは、聖人のような人だ、と褒めたたえられるかもしれない。
日本では特に自己犠牲を美化する考え方があって、自分を大事にすることは、利己的な事だと捉えられやすい、という一面がある。
誤解しないでもらいたいのは、人のために生きる事が悪いことだと言っているわけではない。
例えば子供のために生きる、というのは自分がやりたい事でもあるし、自分の幸せに直接繋がっている事。
もちろん、これは「愛の奉仕」であるわけだし、それ自体は素敵なこと。
「愛とは犠牲」という呪い
だけど、自分はガマンして子供に何でも譲ったり、人を優先して自分は遠慮する、という生き方は相手のためにも自分のためにも実はなっていない、ということが見落とされがちだということは、意外に知られていないように思う。
自分の大事な母親が、いつも我慢して子供ばかりを優先していたら、子供はどう思うだろう。
嬉しいだろうか。
ちょっと想像してもらいたいのだが、例えば、自分の母親が、子供にだけいい物を着せて、自分がボロを着ていたとしたら、あなたは嬉しいか。
私だったら母のそんな姿を見たくないし、母がキレイな恰好をしていて、「ともちゃんのお母さんきれいだね」と言われたら普通に嬉しい。
そして、例えばあなたの両親がめちゃくちゃいがみ合っていて、同じ空気を吸うのも嫌がっている仲なのに、子供であるあなたに「不自由させないように」、と勝手な親心で離婚しないでいたらどうだろう。
愛し、愛され、女性として楽しめるような人生を、明らかに歩んでいない母から「あなたのためよ」って・・・
これ以上恐ろしいことがあるだろうか。
私が子供だったら、そんな荷が重い役をやらせないでくれよ!って逃げ出したくなる。
その母の生き方を「正しい女性のありかた」として教えられたとしたら、女性として幸せになれる絵を、あなたは描けるだろうか。
いやあ、これは難しい。
向こう500万年くらい、幸せは見えない(苦笑)。
大人になるのを楽しみにすることができなくなる。
子供だって愛する母を助けたい
実際に、こういう母を持ち、苦しむ姿を見て心を痛めてきた女性をカウンセリングの場でたくさん見てきた。
彼女らは、自己犠牲で生きてきた母から母を可哀そうな人だと考える。
「だから、私はずっと母の側で守ってあげなくちゃ!」
こうして、母のコピーみたいな娘ができあがる。
愛とは自己犠牲なり、と。
子供の愛を見くびらないで頂きたい。
子供だって、愛する母に幸せでいてもらいたいのだ!
大切な人が自分に優しくなかったり、守ろうとしていなかったら、苦しくないだろうか。
娘だって本当は自分の事だって考えないといけないし、幸せになりたいはず。
でも、まずは母に幸せであってもらいたい、と願ってしまう。
なぜなら、母こそが自分の女性としてのモデルだから。
女性として傷ついてきた事実をすり替えて、ゆがんだ愛を「親心」というラベルを貼って、子供に押し付けるくらいなら、
「パパは素敵なパパだけど、私のパートナーとしては合わなかったの。だけど、今度こそ素敵な恋をして、幸せになるからね!」
って、自分で幸せになろうとする姿を見せてくれた方が、よっぽど救われる。
人に幸せにしてもらおうと期待して待ち続けている生き方ではなく、自分で自分を幸せにしようと努力する姿を見せるのは、人生は自分で選択し、作っていけるのだ、ということを教える事となる。
自分を大切にし、自分を幸せにしようと努力し続ける人の周りには、同じく健全に自分の幸せに責任をもって取り組む人が集まる。
自分を人と同じように大事にすることこそが、結果的には、愛する人、愛してくれる人に対する思いやりになっていくのだ。
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